『ドライブ・マイ・カー』を読んだ感想と考察
こんにちは。
女性限定の読書会、横浜読書会konkonの主催の栞(しおり)です。
「他者を理解すること」から「他者のわからなさを引き受けること」へ移っていく家福の物語として、『ドライブ・マイ・カー』を読んだ考察と感想を書いてみました。
村上春樹ブームから7年以上経って『ドライブ・マイ・カー』を読みました
村上春樹『女のいない男たち』収録「ドライブ・マイ・カー」を読みました。
※この記事は作品の内容に触れています。
私が村上春樹作品を初めて読んだのは、中学1年生の頃に手に取った『ノルウェイの森』でした。
その後しばらく私の中で村上春樹ブームがあり、『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』など、学校の図書室にあった作品を順番に読んでいきました。
当時は、作品の独特のリズム感が好きでした。
今回も、1回目をAudibleで聞いてきた時、「ここは絶対、相手が主人公のセリフを繰り返すぞ……」と思ったら、やはりそうだった、という場面があり、あらためて自分はこのリズムにかなり親しんでいたのだと思いました。
一方で、ブームが中学時代だったこともあり、村上春樹作品によく描かれるパートナーシップについては、当時の私はまだよくわかっていませんでした。
そう考えると、この「ドライブ・マイ・カー」を当時読み落とし、大人になってから初めて読むことができたのは、むしろラッキーだったのかもしれません。
今回は、パートナーシップという視点から読んでみました。
家福は、妻の前で「不貞を知らない夫」を演じていた
主人公の家福(かふく)は、妻の不貞を知りながら、それを知らないふりをしていました。
その演技には、愛する妻との関係を壊さないためという目的のためだけではなく、傷ついている自分を妻にさらさないためという目的が重なっていたように思います。
この「演技」という壁は、彼自身の傷を隠すことで関係を守る一方で、その傷を妻に受け止めてもらう機会も阻んでいます。
なぜ他の男たちと寝たりしたのか、その理由を妻が生きているうちに思い切って聞いておけばよかった。彼はよくそう考える。実際にその質問をもう少しで口にしかけたこともあった。君はいったい彼らに何を求めていたんだ?僕にいったい何が足りなかったんだ?彼女が亡くなる数ヶ月前のことだ。しかし激しい苦痛に苛まれながら死と闘っている妻に向かって、そんなことはやはり口にできなかった。そして彼女は何ひとつ説明しないまま、家福の住む世界から消えていった。
——村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』文春文庫、2016年、37頁
その後、妻はこの世を去ります。
家福は最後まで妻の不貞を知らない夫の演技を続けました。愛する人の裏切りの意味を一人煩悶し、苦痛を引き受けていました。
とても胸が痛くなる場面です。
妻が亡くなっても、演技は終わらない
しかも、その演技は妻の死後も終わりません。
妻と不貞関係にあった同業者の高槻と出会い、家福は妻の不貞を知っていることを隠し、友人として振る舞います。
家福が高槻に近づいた動機には、妻について知りたいという思いだけではなく、高槻を傷つけたいという復讐心もありました。しかし付き合いを重ねるうちに、演技として始まった友情と本当の友情との境目は、家福自身にもわからなくなっていきます。
妻の本心を知ろうとする家福自身もまた、高槻への友情が演技なのか本物なのか、自分の心を完全には見通せなくなっています。
相手は変わっても、自分の知っていることや傷を隠しながら関わるという形は同じです。
妻との間で正しく終えることができなかった演技が、別の形で続いているようにも見えました。
「どう言えばいいんだろうな。いったん真剣に演技を始めると、やめるきっかけを見つけるのがむずかしくなる。それがどれほど精神的にきついことであっても、その演技の意味がしかるべき形をとらないうちは、流れを止めることはできないんだ。音楽が、ある決まった和音に到達しないことには、正しい結末を迎えられないのと同じように……。」
——村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』文春文庫、2016年、47頁
家福にとって、演技は「決まった和音」にたどり着かなければ終われないものです。
自分の中で納得できる形になるまでは、演じることをやめられない。
もう演じる相手がいなくなっても、幕引きまでは役を降りることができない。
演じることへの真摯さに、尊敬と悲しさの両方を感じます。
妻を理解しきろうとすることの苦しさ
どうして彼女が他の男たちと寝なくてはならないのか、家福にはよく理解できなかった。そして今でも理解できていない。
——村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』文春文庫、2016年、37頁
家福の盲点のひとつは、「妻の不貞を知らない夫」を演じ続けるうちに、妻の中には自分には捉えきれない領域がある、ということを十分に受け入れられなくなっていたことではないかと思います。
相手を理解しているつもりでいることと、本当に相手を理解していることは違います。
むしろ、理解できない部分があることを認めることの方が、他者と関わるうえでは大切なのかもしれません。
「僕にとって何よりつらいのは」と家福は言った。「僕が彼女を――少なくともそのおそらくは大事な一部を――本当には理解できていなかったということなんだ。そして彼女が死んでしまった今、おそらくそれは永遠に理解されないままに終わってしまうだろう。深い海の底に沈められた小さな固い金庫みたいに。そのことを思うと胸が締めつけられる」
——村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』文春文庫、2016年、58頁
家福は、妻の謎を解き、自分なりの答えにたどり着こうとします。
そのために、妻と不貞関係にあった高槻という男と、何も知らないふりをしながら友人関係を築きます。
高槻との関係を続けるうちに、家福は彼という人間を通して、妻の中にあった自分の知らない部分へ近づこうとします。妻がなぜ彼を求めたのか。彼の中に、自分にはなかった何があったのか。高槻を知ることで、妻についての答えを得ようとしているようにも見えます。
けれどその姿勢そのものが、「理解しきれない他者」を理解しきろうとする苦しさにつながっていたようにも感じました。
ここで、家福が抱えてきた問いに、意外な角度から「答え」を差し出すのが、なんと高槻です。
家福が求めていたのは、妻の不貞相手と友人関係を構築してでも、妻の心の中に入り、「なぜ自分を裏切ったのか」という答えを見つけることでした。
ですが、そもそも他者の心を完全に理解することはできない、と高槻は言うのです。
でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。
——村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』文春文庫、2016年、60頁~61頁
高槻が示したのは、盲点をなくす方法ではありません。むしろ、他者には自分から決して見えない領域があることを受け入れ、その答えを相手の中だけに求めるのではなく、自分自身を見つめることでした。
家福はここで、自分が妻について問い続けてきた、その問い方そのものを変えるきっかけを与えられたのではないでしょうか。
主人公にとって他者に身を任せること
作品の冒頭では、家福の女性の運転に対する持論が書かれます。
もちろんどちらの側にも属さないものもいる。乱暴すぎもせず、慎重すぎもしない、ごく普通の運転をする女性たちだ。その中にはかなり運転の達者な女性たちもいた。しかしそんな場合でも家福は、彼女たちからなぜか常に緊張の気配を感じ取ることになった。何がどうと具体的に指摘はできないのだが、助手席に座っていると、そういう「円滑ではない」空気が伝わってきて、どうも落ち着かなくなってしまう。いやに喉が渇いたり、あるいは沈黙を埋めるために、しなくてもいいつまらない話を始めたりする。
——村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』文春文庫、2016年、20頁
男性と女性を区別することは、日常生活レベルではあまりない、能力差を感じることもほとんどないと補足しつつ、彼にとって、女性が運転する車に乗るということは、どうにも落ち着かないことでした。
何が彼を不安にさせるのでしょうか。
私はここに、パートナーシップによる傷を、役者として身につけた「演じる」という能力で覆い隠してきたことの歪みが表れているように感じました。
他者、特に女性に自分の身をゆだねることへの抵抗感を、家福は抱えていたのではないでしょうか。
もちろん、女性の運転に対する家福の感覚を、妻との関係だけで説明することはできません。ただ私は、この「自分では運転できない状況で、他者に身体を預けることへの居心地の悪さ」が、妻との関係で彼が抱えていた緊張と、通じるものがあるように感じました。
しかし、新しく雇われた専属ドライバー・みさきの運転には、家福はそれまでにない安らぎを感じます。
みさきの運転する車では、家福は自分の視界と判断だけで、すべてを支える必要がありません。
無口なみさきからは、家福への好意や反感、評価といったものが、はっきりとは読み取れません。
それでも家福は、それを気にすることなく、彼女が運転する車内では、本来他者の前では緊張してできないという台詞の練習にも没頭することができます。
家福は役者です。つまり、人前で自分自身を制御し、声や身体を操り、適切な反応を返すことを職業にしています。一方、助手席に座るということは、その制御のかなりの部分を他人に明け渡すことです。
だから、みさきの運転する車の中で台詞を練習できるというのは面白い逆転でした。
妻の前では、関係を守るために演技を続ける必要がありました。しかしみさきの前では、自分を守るために演じる必要がないからこそ、俳優としての演技に没頭することができました。
ここに、この物語の救いと変化があるように思いました。
他者を完全に理解できなくても、身を任せることはできる
家福は、妻の謎を解き、「決まった和音」に到達しなければ、自分の演技は終われないと考えていたように見えます。
夫婦関係において、自分には理解できない妻の領域が存在することを認め、その「わからなさ」を二人の関係の中に持ち込むことが、家福にはできませんでした。
けれど、みさきとの車内では、相手のすべてを理解しなくても、身を任せて同じ空間にいることはできました。
自分には見えないものが残ったままでも、その相手を信頼することはできる。
家福の問いに対して、高槻が言葉でひとつの方向を示し、みさきとの関係の中で、家福はそれを経験したのです。
「見えないところ」があるまま、それでも他者とともにいる
「ドライブ・マイ・カー」を読んで印象に残ったのは、他者を理解することそのものよりも、「完全には理解できない」という事実をどう受け入れるか、というテーマでした。
人には、自分からは見えない部分があります。
車を運転するときにも、どれだけ注意深く周囲を見ていても、死角はなくなりません。人と人との関係にも、それと似た「見えないところ」があるのかもしれません。
家福は、妻の謎を理解しきろうとすることで苦しみ続けます。
けれど、みさきとの関係では、自分には見えないところがあるまま、それでも他者とともにいることができます。
理解しきれないことと、信頼できないことは、同じではない。
この物語の最後に残る安らぎは、盲点を完全になくすことではなく、盲点があることを受け入れたうえで、それでも他者に身を任せられることなのではないかと思いました。
以上、「他者を理解すること」から「他者のわからなさを引き受けること」へ移っていく家福の物語として、『ドライブ・マイ・カー』を読んだ考察と感想でした。
もうすぐペーパードライバー歴が2桁になる私が、こんな考察を書いていいのかな…と思いながら最後まで楽しく展開していくことができました。
お読みいただきありがとうございました!
他にも、下記のような書評を書いています。
興味があれば、のぞいて見て下さい。





